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三条大橋周辺 [風景]

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これは、だん王にあったモニュメント。
こんなのも後数百年も経ったら、貫禄がでてくるんだろうなぁ・・・。

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瑞泉寺の塀に窓が開いていた。
窓がなければ、塀の内側がお墓ってわからないだろう。
このお寺の場所は、三条河原の中洲だった。

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↑夜、フト覗いたらお墓だったらちょっとビックリするだろうな。隣がミンミンなんです。

文禄4年(1595年)7月、秀次は叔父豊臣秀吉から謀反を疑われ関白の職を剥がれて高野山に追放された。7月15日(8月20日)、賜死を命じられた秀次は切腹した。山本主殿、山田三十郎、不破伴作など家臣5人もまた殉死した。秀吉は伏見で首実検し、8月2日(9月5日)、秀次の首は三条河原で梟首(キュウシュ。さらし首)されることになるが、その時に秀次の妻妾、幼児などを合わせて30余人が打首とされた。遺体は秀次の首とともに河原に埋められ、塚、石塔が建てられて(石櫃に)「秀次悪逆塚文禄四年七月十四日」と刻されたという。この首塚と墓は、殺生塚、関白塚、摂政塚、畜生塚などと称され、かえりみる者は無かったが、慶順という行者はそのかたわらに草庵を結び、菩提を弔った。
この場所は、そういう場所なんです。

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↑覗くとお墓でしょ。

慶長16年(1611年)、京都の豪商角倉了以によって高瀬川を開く工事が行われているときに、偶然発見された石に秀次悪逆塚と刻まれていた。それは文禄4年(1595年)自害させられた豊臣秀次の石塔だった。実は高瀬川の開削責任者だった角倉了以の実弟吉田宗恂(医師)は、秀次に仕えていたことがあり、彼は秀次事件への連座は免れたが、前年の慶長15年(1610年)に死去していた。

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↑先斗町の道はかわいいでしょ。

慶長16年は宗恂の一周忌にもあたることから、了以と立空桂叔(浄土宗西山派僧侶)は、秀次の菩提を弔うために江戸幕府の許可を得て堂を営むこととし、秀次の戒名「瑞泉寺殿高巌一峰道意」から寺号を取って、瑞泉寺を建立した。以後、瑞泉寺は400年間にわたり秀次事件により死罪となった秀次と連座した一族・家臣の菩提を供養している。

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↑先斗町のイメージ「千鳥」

この慈舟山瑞泉寺は、そういうお寺なんです。

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ここは、先斗町歌舞練場。
思えば小さい時から縁がありました。
若くして亡くなった妹が日本舞踊を習っていて、踊りの会が歌舞練場でありました。
だからよくウロウロしていました。

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↑大道具はこの入り口から搬入

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↑懐かしいなぁ・・・

ここで毎年講演会を開いていたこともありました。
だからよくお世話になりましたね。

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タグ:京都 風景
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