蓮華が浄くて、泥が不浄? [社寺]
高札を取りあえず書き写してみます。
「蓮華の浄しといえども
泥を離れざるが如し」
蓮はあえて泥の中に咲きます。きれいな清水の中には咲きません。私たち人間は、いつもきれいなところに逃げたいと思っています。しかし、逃げても逃げても、やっぱりそこは泥だらけです。泥水をすすりながら自分の中で浄化して、独自の花を咲かせる蓮が、私たちの生きる見本です。
これが高札に書いてある。
私は、書き写して認識しないと読めない・・・。
話しとしては、そうなんだけど・・・・。
泥水の中に栄養素やミネラルが含まれている。だから蓮が生長する。
もし泥水でなく清流ならワサビぐらいしか育たない。
まあ、適材適所というやつか。
もしも水が蒸留水なら生物は育たない。
一見嫌いなのがいいとは限らない。
見かけで、感情でいいとかわるいとか判断しない方がいいのかも。
私たちは、三次元という泥水に住んでいる存在かも。
花が綺麗で泥水が綺麗でないという心を持たない方がいいのかも。
必要必然で感謝すべき世界なのかも。意味があるから環境も存在する。
いいもわるいもない。
あるがままに受け入れることが必要。
そんなことを思いました。
何が綺麗で何が汚いのか?
認識する心の問題かもね。
※光回線騒動
我が家がやっと光回線になった。心なしか部屋が明るくなったように感じます。(そんなことはないか)
でもWi-Fiが弱いから無線でスピードがでない。
そこで電波を強化する機械を購入。ところが私には説明書が読めない。悲しい読字障害なんです。読めたとしても用語がわからない。説明書を書いた奴はアホやね。もっと丁寧に説明して欲しい。そこで長男に助けを求めた。彼は専門家。
Wi-Fi問題は解決した。ただ有線接続の配線もしたい。それは追々やって行きます。室内に電波が飛び交うのが不快なんです。まあ、普通の人には分からないだろうぁ・・・。
↑京男の和菓子本が新装版になりました。初版を出版した2013年1月26日時の記事と新装版が出版した2018年1月19日の記事をご覧ください。
(色のかわっている部分をクリックすると表示されます)
Twitter→@kyo_otoko
「蓮華の浄しといえども
泥を離れざるが如し」
蓮はあえて泥の中に咲きます。きれいな清水の中には咲きません。私たち人間は、いつもきれいなところに逃げたいと思っています。しかし、逃げても逃げても、やっぱりそこは泥だらけです。泥水をすすりながら自分の中で浄化して、独自の花を咲かせる蓮が、私たちの生きる見本です。
これが高札に書いてある。
私は、書き写して認識しないと読めない・・・。
話しとしては、そうなんだけど・・・・。
泥水の中に栄養素やミネラルが含まれている。だから蓮が生長する。
もし泥水でなく清流ならワサビぐらいしか育たない。
まあ、適材適所というやつか。
もしも水が蒸留水なら生物は育たない。
一見嫌いなのがいいとは限らない。
見かけで、感情でいいとかわるいとか判断しない方がいいのかも。
私たちは、三次元という泥水に住んでいる存在かも。
花が綺麗で泥水が綺麗でないという心を持たない方がいいのかも。
必要必然で感謝すべき世界なのかも。意味があるから環境も存在する。
いいもわるいもない。
あるがままに受け入れることが必要。
そんなことを思いました。
何が綺麗で何が汚いのか?
認識する心の問題かもね。
※光回線騒動
我が家がやっと光回線になった。心なしか部屋が明るくなったように感じます。(そんなことはないか)
でもWi-Fiが弱いから無線でスピードがでない。
そこで電波を強化する機械を購入。ところが私には説明書が読めない。悲しい読字障害なんです。読めたとしても用語がわからない。説明書を書いた奴はアホやね。もっと丁寧に説明して欲しい。そこで長男に助けを求めた。彼は専門家。
Wi-Fi問題は解決した。ただ有線接続の配線もしたい。それは追々やって行きます。室内に電波が飛び交うのが不快なんです。まあ、普通の人には分からないだろうぁ・・・。
↑京男の和菓子本が新装版になりました。初版を出版した2013年1月26日時の記事と新装版が出版した2018年1月19日の記事をご覧ください。
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