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大将軍八神社 [社寺]

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昨日、清水寺で毎年やっている今年の漢字発表をしていた。
今年は、「密」が選ばれた。一般の人からの投票だから仕方ないけど、しょうもない漢字ですね。そろそろこんなのも止めたらいいのに。もうちょっとひねらんかい!そのまんまやんけ!そのように思いました。
森貫主もマスクをして・・・大変なんだろうなぁ。

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昨日は、北野天満宮に行った。
近所の大将軍八神社(だいしょうぐんはちじんじゃ)の話しを聞いていたので、実際に行ってみました。

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ここは、延暦13年(794年)の平安京遷都の際、王城鎮護のため陰陽道の考えにより都の方除けをしようとし、大内裏の乾(戌亥・北西)の天門守護として、八将神の一柱であり金曜星(太白)の神格である方位神・大将軍を奈良の春日山麓から勧請し、大将軍堂が造営されたそうです。

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室町時代には応仁の乱によって荒廃したが、神社として復興した。

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江戸時代に八将神の信仰が強まりを見せると祭神の大将軍が素戔嗚尊(牛頭天王)と習合し、八将神は素戔嗚尊の御子神八柱もしくは牛頭天王の眷属である八王子と習合して祀られるようになった。その際、大将軍とは素戔嗚尊でもあり、また御子神八柱のうちの天津彦根命でもあるとされた。その理由は、大将軍堂は暦応3年(1340年)から約100年の間は祇園社(現、八坂神社)の管理下にあり、八坂神社の祭神が素盞鳴尊であり、その神格が大将軍神と似通っている事から関連付けられたためと考えられている。こうして社名は大将軍八神宮と改称され、大将軍社とも呼ばれるようになった。

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江戸時代には方除厄除12社参りが流行し、その時期に建立された天保11年(1840年)の標石は現在も門前にある。

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明治時代に入ると神仏分離の流れの中で、正式な祭神は素戔嗚尊とその御子神八柱に変更され、社名は大将軍八神社となった。

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大将軍は建築や転居、旅行などにおいて方角の吉凶を司る神であるため、大将軍八神社は長きにわたり民間の崇敬を集めた。
以上は、ウィキペディアからの引用でした。

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ここに行った時、ご祈祷をされていた。
声がとても大きくよく通っていたのが印象的でした。

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タグ:社寺 京都
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