東寺風景・・・2 [社寺]
本日は、年に二度の大祓。
ほんまは、全地球的に大祓をし人間自身が自分の犯した罪をお祓いした方がいいかも。もっとも人類は犯した罪の自覚はないでしょうね。
日本も他の国ほどではないけど、罪だらけでしょう。
茅の輪くぐりをしたぐらいでは、なんともしようがないだろうな。
年に二度と書きましたが、年末の大晦日も大事な大祓があります。
神社では内々でやったはるようです。
一般の人は意識していないかも。
どうも今年は写真を撮る時間がない。
水無月もあまり食べたくない。
飽きてきたのかな?
あまり効能がないことに興味がなくなったのかも。
↑贔屓君です。この時は軽い挨拶しかしていなかった。
明日から7月!
時間の経つのが早すぎる。
昨日も昼から実家で父親と話していた。
シビアな話しをしておりました。
参考図書を読ますように指示。朗読の音声、聴かないだろうな。
でもできるだけはやるしかない。
しゃべっても通じないのは疲れますね。
小さい時は、父親に一方的に説教されていた。
もちろん、私の頭になにも残っていない。
同じことを立場を替えてやっているような・・・。
↑京男の和菓子本が新装版になりました。初版を出版した2013年1月26日時の記事と新装版が出版した2018年1月19日の記事をご覧ください。
(色のかわっている部分をクリックすると表示されます)
Twitter→@kyo_otoko
東寺風景 [社寺]
もう6月も終わりですね。
夏越の祓、和菓子でいうと水無月。
でもなんか写真を撮りに行く気になれない。
困ったもんです。
茅の輪にくぐっても新型コロナに有効でない。
水無月だって、それほど美味しい訳でもないし・・・。
いけませんね。
神仏だって新型コロナに太刀打ちできないということがわかった。
まあ、新型コロナも人間の欲望がらみのことで広がっているように思う。
その人間のことを神仏は干渉しないかも。
神仏からすれば「あんたらで作ったウイルスなんやから、自分でなんとかしなさい」ということなのかも。
それにしても、京都市内が荒んで来ているように思う。
人出も少しは戻って来ているけど、それほど楽しくなさそうだし・・・。
しかも閉まっているお店が多い。
祇園なんかも寂しい限りです。
京都市って観光に依存している街なんだなぁ・・・と思いますね。
新型コロナだって数年すれば終わるでしょう。
ひょっとして毎年、ワクチンを注射しないといけなくなるかも。マスクだってやっぱりしていたりしてね。
社会が変化するのでしょう。
いままでと同じことをしようとする組織は衰退するのでしょう。
最近、百貨店に行っても苦痛なだけ。
外食も同じ。
閉所がいやなのかな?アクリやフイルムで区切ってあるのが嫌なのかも。
なんか写真と全然リンクしていない内容でしたね。
すんませんなぁ・・・。
↑京男の和菓子本が新装版になりました。初版を出版した2013年1月26日時の記事と新装版が出版した2018年1月19日の記事をご覧ください。
(色のかわっている部分をクリックすると表示されます)
Twitter→@kyo_otoko
三条大橋周辺 [風景]
これは、だん王にあったモニュメント。
こんなのも後数百年も経ったら、貫禄がでてくるんだろうなぁ・・・。
瑞泉寺の塀に窓が開いていた。
窓がなければ、塀の内側がお墓ってわからないだろう。
このお寺の場所は、三条河原の中洲だった。
↑夜、フト覗いたらお墓だったらちょっとビックリするだろうな。隣がミンミンなんです。
文禄4年(1595年)7月、秀次は叔父豊臣秀吉から謀反を疑われ関白の職を剥がれて高野山に追放された。7月15日(8月20日)、賜死を命じられた秀次は切腹した。山本主殿、山田三十郎、不破伴作など家臣5人もまた殉死した。秀吉は伏見で首実検し、8月2日(9月5日)、秀次の首は三条河原で梟首(キュウシュ。さらし首)されることになるが、その時に秀次の妻妾、幼児などを合わせて30余人が打首とされた。遺体は秀次の首とともに河原に埋められ、塚、石塔が建てられて(石櫃に)「秀次悪逆塚文禄四年七月十四日」と刻されたという。この首塚と墓は、殺生塚、関白塚、摂政塚、畜生塚などと称され、かえりみる者は無かったが、慶順という行者はそのかたわらに草庵を結び、菩提を弔った。
この場所は、そういう場所なんです。
↑覗くとお墓でしょ。
慶長16年(1611年)、京都の豪商角倉了以によって高瀬川を開く工事が行われているときに、偶然発見された石に秀次悪逆塚と刻まれていた。それは文禄4年(1595年)自害させられた豊臣秀次の石塔だった。実は高瀬川の開削責任者だった角倉了以の実弟吉田宗恂(医師)は、秀次に仕えていたことがあり、彼は秀次事件への連座は免れたが、前年の慶長15年(1610年)に死去していた。
↑先斗町の道はかわいいでしょ。
慶長16年は宗恂の一周忌にもあたることから、了以と立空桂叔(浄土宗西山派僧侶)は、秀次の菩提を弔うために江戸幕府の許可を得て堂を営むこととし、秀次の戒名「瑞泉寺殿高巌一峰道意」から寺号を取って、瑞泉寺を建立した。以後、瑞泉寺は400年間にわたり秀次事件により死罪となった秀次と連座した一族・家臣の菩提を供養している。
↑先斗町のイメージ「千鳥」
この慈舟山瑞泉寺は、そういうお寺なんです。
ここは、先斗町歌舞練場。
思えば小さい時から縁がありました。
若くして亡くなった妹が日本舞踊を習っていて、踊りの会が歌舞練場でありました。
だからよくウロウロしていました。
↑大道具はこの入り口から搬入
↑懐かしいなぁ・・・
ここで毎年講演会を開いていたこともありました。
だからよくお世話になりましたね。
↑京男の和菓子本が新装版になりました。初版を出版した2013年1月26日時の記事と新装版が出版した2018年1月19日の記事をご覧ください。
(色のかわっている部分をクリックすると表示されます)
Twitter→@kyo_otoko
だん王? [社寺]
↑檀王法林寺
本日は、25日の続きです。
何が続きかというと篠田屋の隣のお寺だからです。
名前が不思議。「だん王」という名前の寺。
「だん王」って何?
調べるとお寺の由来に関係するらしいのです。
お寺のホームページに書いてあるので引用させていただきます。
◆檀王法林寺の前身悟真寺
檀王法林寺は正式名称を「朝陽山 栴檀王院 無上法林寺」(ちょうようざん せんだんのういん むじょうほうりんじ)といい、その歴史は望西楼了恵(ぼうせいろうりょうえ)上人(1243-1322)の悟真寺(ごしんじ)創建にはじまります。
了恵上人は浄土宗三条派の派祖となり、亀山天皇の帰依を受けて「朝陽山」の山号を賜り、文永9年(1272)に悟真寺を三条の地に建立しました。この地で宗祖法然上人の浄土の真義を伝えるなど、専修念仏の布教につとめられ、法然上人の教義をまとめた「黒谷上人語灯録」を著しました。
上人は元徳2年(1330)88歳で入寂されましたが、このとき後醍醐天皇より「広済和尚」の号を与えられました。
その後、悟真寺は応仁の乱をはじめ、度重なる天災人災の被害を受け、永禄年間(1558‐69)に焼失したと伝えられています。
↑鳥之供養塔、古いものではないらしい。昭和31年に京都食鳥組合が作ったそうです。京都市内では、かしわ屋さんが多かった。鶏はよく食べられていましたからね。
◆開山袋中良定上人
この悟真寺の縁地に新しく檀王法林寺を築いたのが袋中(たいちゅう)上人です。
上人は天文21年(1552)磐城国(現在の福島県いわき市)にお生まれになり、14歳で出家し「袋中良定」と称するようになりました。上人はさまざまな地で修学に励み、若き頃より学僧と知られ浄土宗の教えをことごとく相伝されました。
慶長7年(1602)、51歳の時に明(当時の中国)へ渡ろうと決意しましたがかなわず、翌8年から3年間琉球国に留まることになりました。
↑本堂
帰国後、慶長16年(1611)京都に入り、了恵上人が開いた念仏道場の縁地(悟真寺)に草庵を建立し、「朝陽山 栴檀王院 無上法林寺」と名づけました。檀王法林寺において上人は、浄土念仏の教化につとめ著述に没頭された一方で、寺域を拡張し寺院の基盤を固められました。
そして元和5年(1619)、住持すること9年にして上人は、「法林寺什物帖」を弟子の團王(だんのう)上人に書き残し、寺を譲って東山五条坂に袋中庵を創建し移り住まわれました。
◆「だんのうさん」の由来
そのあとを継いだ團王上人は寺院興隆に尽力され、恵心僧都作と伝えられる阿弥陀如来立像を本尊(現在の御本尊)として阿弥陀堂(本堂)を建立し、寺域も現在の広さにまで拡大させていきました。
團王上人は人徳も厚く町衆信者との交流を深められましたので、当寺は庶民から「だんのうさん」と親しみを込めて呼ばれるようになったのが、「だんのう」という名称の由来です。
ここは、当然、小さい時から知っています。
小学校ぐらいの時に遊びにきていますからね。
当時から幼稚園がありました。
↑京男の和菓子本が新装版になりました。初版を出版した2013年1月26日時の記事と新装版が出版した2018年1月19日の記事をご覧ください。
(色のかわっている部分をクリックすると表示されます)
Twitter→@kyo_otoko
泥ガメの日向ぼっこ [社寺]
↑東寺東門から境内を見る
本日の写真は、今週の天気がいい時の東寺境内。
もう蓮がかなり伸びてきている。
しかも花の蕾も大きくなってきている。
来週ぐらいには、花が咲き出すかも。
もう7月ですものね。
新型コロナの影響は、時間の感覚を狂わせる。
昨日は、眼科に行った。
待たされた。予約の時間通りに行っても1時間ぐらい待たされた。
精算でも、薬局でも待たされた。
昨日は、早朝からズッと作業・・・それも眼を酷使する作業。
腕の筋肉もボロボロになった。
病院から加工作業をしてもらう所でも待った。
最終的に実家へ。
父親に書類の説明をしてから家に帰り、作ったものを発送。
なんとか宅急便に間にあった。
ちょっと横になると寝てしまった。
目が覚めると京女がテレビを観ていた。
時間は7時。
朝と勘違いして焦った。父親が透析に出発するのを見守らないと・・・。
そこで夜だと気が付いた。
なんか疲れが溜まっているのかな?
晩ご飯を食べる気もしない。
昨日はなんだったんだ。
東寺の泥ガメみたいに日向ぼっこして過ごしたいな。
この泥ガメ、よく見たら全部アカミミガメ・・・つまり外来種だ。
これって問題かも。
↑京男の和菓子本が新装版になりました。初版を出版した2013年1月26日時の記事と新装版が出版した2018年1月19日の記事をご覧ください。
(色のかわっている部分をクリックすると表示されます)
Twitter→@kyo_otoko