大谷本廟 [風景]
↑大谷本廟
この日は、晴れていた。
ただし、気温が36度ぐらいだったかも。
徒歩で祇園から四条河原町まで歩いた。
写真もちょっと撮りたかったしね。
本日は、大谷本廟。
大谷本廟は、文永9年(1272年)に東山大谷の地に建立された親鸞の廟堂。
昔、父親に「我が家の宗派はなに?」と聞くと「門徒」と言った。
門徒とは浄土真宗のこと。
それ以上聞いても父親から答えがなかった。
↑我が家は、ここから先は関係ないのです。
母親が亡くなった時、再度「我が家の宗派はなに?」と聞いた。
同じく「門徒」とだけ。
「葬式はどうするのか?」と聞いても明確な答えがなかった。
「仏壇を見ると浄土宗なんだけど・・・どうなっている?」という質問をしても明確な答えがなかった。
結局、妹が中学生の時、病気で亡くなったのですが、その時、浄土真宗の僧侶とケンカをしたらしいのです。以来、母親任せで父親は関与していなかった。
墓地は、大谷本廟の隣なんです。
だからいつもこの道を通りのです。
母の葬式は、私が仕切った。
僧侶は、葬儀屋さんに「適当に見繕って」とオーダーした。
位牌も通販で作った。入霊作業も自分でやりました。それほど難しい作業ではない。
いい加減に作った妹の位牌も作りなおした。
妹も母も化けて出て来ていないので、問題ないと思う。
父は、宗教関係を全く知らないのには驚いた。
まあ、次男だからあまり意識しなかったのだろう。
そういえば我が両親は、嫁姑問題も関係なかった。介護もしたことがない。
そういう人生経験がない。幸せな人生です。
↑鐘楼
私は、兄弟姉妹がいないから逃げ道がない。
自分でやるしかないのです。
墓だって、いい加減だった。母の時、骨の整理をした。自分が感じるやり方でね。
我が家の墓地は、お寺の中にないからお寺との付き合いもない。
法要なんて必要ないしね。
それで化けて出たりしていない。化けて出て来たら説教です。(笑)
両親や先祖は、私の体内つまりDNAに存在する。
だから自分の身体を大事に使うのが供養になる。
京女だけは、別かも。DNAでは繋がっていない。でも縁で繋がっている。
だからこの世で一番大切に付き合わないといけない。
子供の中に、京男・京女・両親・先祖代々が含まれている。だから子供をしっかり育てる必要があるように思う。孫はまだいないからようわからないけど、同じようなものでしょう。
だから自分の身体が墓地でなり、仏壇だと思う。
こういう場所を歩いていて、そんなことを考えていた。
その時、カメラからメッセージが「メモリーカードが満杯」と。
確かに古いデータを消すと撮影できる。
日陰で昔のデータを消す作業をしていた。
やれやれ。
↑京男の和菓子本が新装版になりました。初版を出版した2013年1月26日時の記事と新装版が出版した2018年1月19日の記事をご覧ください。
(色のかわっている部分をクリックすると表示されます)
Twitter→@kyo_otoko
銅閣寺? [社寺]
本日の記事は、昨日の続き。
現在の龍池山大雲院を見に行ってきました。
中には入れなかったけど、祇園祭の山鉾のような形の塔を回りから撮ってきた。
ここ数日、安定した天気で連日36度だった。
↑この塔が銅閣です。別名祇園閣といいます。京都名物電線がすごいですね。
↑ここも大雲院
家から歩いて、四条河原町まで行った。
久しぶりに八坂の塔あたりもウロウロした。
他の景色は後日に紹介します。
本日は、取りあえず龍池山大雲院ね。
龍池山大雲院は、四条河原町以前は、御池通の昔の龍池小学校あたりにあったらしい。それが四条河原町に秀吉によって移動させられ、昭和48年高島屋が拡張する時、現在の八坂神社の南に移動した。
移動してきたこの場所はもともと大倉喜八郎の別荘でした。
大倉喜八郎は一代で巨万の富を築き、大成建設や鹿鳴館、帝国劇場、帝国ホテルの創始者でもある人物です。
現在の大雲院はもともと、大倉喜八郎の別邸・真葛荘(まくずそう)の一部だったのです。大倉喜八郎は、「金閣も銀閣もあるんだから、銅閣も作る!」と京都の名物にすることを考えて銅閣を建てたそうです。
だから大雲院というお寺と銅閣とは、あまり関係ないということですね。
この山鉾みたいな塔は、現在それほど名物にもなっていないように思います。
大雲院のような移転を繰り返したお寺は、結構あるかも。
秀吉の京都改造というのは、京都にとって無茶苦茶な改造だったかも。
お寺を並べて防備にするなんて、考え方がすごい。
大倉喜八郎が「金閣、銀閣につづいて銅閣」という発想が面白い。
でも金閣・銀閣と比べたら品がないように思う。
成金の悲しさかも。
私は、この塔の中は入ったことがないです。
公開されているとは思うけど・・・。
↑京男の和菓子本が新装版になりました。初版を出版した2013年1月26日時の記事と新装版が出版した2018年1月19日の記事をご覧ください。
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現在の龍池山大雲院を見に行ってきました。
中には入れなかったけど、祇園祭の山鉾のような形の塔を回りから撮ってきた。
ここ数日、安定した天気で連日36度だった。
↑この塔が銅閣です。別名祇園閣といいます。京都名物電線がすごいですね。
↑ここも大雲院
家から歩いて、四条河原町まで行った。
久しぶりに八坂の塔あたりもウロウロした。
他の景色は後日に紹介します。
本日は、取りあえず龍池山大雲院ね。
龍池山大雲院は、四条河原町以前は、御池通の昔の龍池小学校あたりにあったらしい。それが四条河原町に秀吉によって移動させられ、昭和48年高島屋が拡張する時、現在の八坂神社の南に移動した。
移動してきたこの場所はもともと大倉喜八郎の別荘でした。
大倉喜八郎は一代で巨万の富を築き、大成建設や鹿鳴館、帝国劇場、帝国ホテルの創始者でもある人物です。
現在の大雲院はもともと、大倉喜八郎の別邸・真葛荘(まくずそう)の一部だったのです。大倉喜八郎は、「金閣も銀閣もあるんだから、銅閣も作る!」と京都の名物にすることを考えて銅閣を建てたそうです。
だから大雲院というお寺と銅閣とは、あまり関係ないということですね。
この山鉾みたいな塔は、現在それほど名物にもなっていないように思います。
大雲院のような移転を繰り返したお寺は、結構あるかも。
秀吉の京都改造というのは、京都にとって無茶苦茶な改造だったかも。
お寺を並べて防備にするなんて、考え方がすごい。
大倉喜八郎が「金閣、銀閣につづいて銅閣」という発想が面白い。
でも金閣・銀閣と比べたら品がないように思う。
成金の悲しさかも。
私は、この塔の中は入ったことがないです。
公開されているとは思うけど・・・。
↑京男の和菓子本が新装版になりました。初版を出版した2013年1月26日時の記事と新装版が出版した2018年1月19日の記事をご覧ください。
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龍池山大雲院跡 [社寺]
本日の内容は、8月26日「残り蓮」に出てくる智積院明王殿の建物が引っ越しする前の場所に写真を撮りに行ったもの。
といっても毎日行っているような場所です。
↑この通りが寺町通、元は電気の街といわれ電気製品の店が並んでいた。いまはヨドバシカメラやビッグカメラが出来て、滅んでしまった。
ここは、四条通寺町を下がった(南に行く)所にある。
左隅に永正亭があります。
いまは、細長くなった敷地に火除天満宮があります。
火除天満宮、元は大雲院の鎮守社だった。お寺は移動し、神社だけが残ったという不思議な状態になっている。
ここの近くに錦天満宮もあります。
学問の神様は、人気がありますね。
大雲院は、現在、八坂神社の南側にあるのです。
それも写真を撮ってきました。
また、ご紹介します。
↑龍池山大雲院跡の石碑
(書き写しておきます)
龍池山大雲院跡
大雲院は天正15年(1587)
織田信長・信忠父子の菩提を弔
うため正親町天皇の勅命により
開山貞安上人に御池御所(烏丸
二条)を賜わり信忠公の法名に
因んで大雲院と号した。
豊臣秀吉は寺地の狭隘なるを
見て同18年当地に移し寺観は
面目を一新した。昭和48年
寺運の興隆を鑑みて、東山山麓
真葛ヶ原の勝地に移転した。
いまは、鰻の寝床のような状態になっている。
こういうのも面白いかも。
でも昔は、大きな敷地だったのでしょうね。
すごくコンパクトだけど、これでもいいのかも。
場所も便利な場所だしね。
人も少ないから、こういう所でお願いしたら、御利益があるかも・・・。
小さいけど牛さんもいます。
錦天満宮より俗っぽくないしね。
ここは、高島屋の駐車場の道です。
よう通る道です。
↑京男の和菓子本が新装版になりました。初版を出版した2013年1月26日時の記事と新装版が出版した2018年1月19日の記事をご覧ください。
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といっても毎日行っているような場所です。
↑この通りが寺町通、元は電気の街といわれ電気製品の店が並んでいた。いまはヨドバシカメラやビッグカメラが出来て、滅んでしまった。
ここは、四条通寺町を下がった(南に行く)所にある。
左隅に永正亭があります。
いまは、細長くなった敷地に火除天満宮があります。
火除天満宮、元は大雲院の鎮守社だった。お寺は移動し、神社だけが残ったという不思議な状態になっている。
ここの近くに錦天満宮もあります。
学問の神様は、人気がありますね。
大雲院は、現在、八坂神社の南側にあるのです。
それも写真を撮ってきました。
また、ご紹介します。
↑龍池山大雲院跡の石碑
(書き写しておきます)
龍池山大雲院跡
大雲院は天正15年(1587)
織田信長・信忠父子の菩提を弔
うため正親町天皇の勅命により
開山貞安上人に御池御所(烏丸
二条)を賜わり信忠公の法名に
因んで大雲院と号した。
豊臣秀吉は寺地の狭隘なるを
見て同18年当地に移し寺観は
面目を一新した。昭和48年
寺運の興隆を鑑みて、東山山麓
真葛ヶ原の勝地に移転した。
いまは、鰻の寝床のような状態になっている。
こういうのも面白いかも。
でも昔は、大きな敷地だったのでしょうね。
すごくコンパクトだけど、これでもいいのかも。
場所も便利な場所だしね。
人も少ないから、こういう所でお願いしたら、御利益があるかも・・・。
小さいけど牛さんもいます。
錦天満宮より俗っぽくないしね。
ここは、高島屋の駐車場の道です。
よう通る道です。
↑京男の和菓子本が新装版になりました。初版を出版した2013年1月26日時の記事と新装版が出版した2018年1月19日の記事をご覧ください。
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夏が戻ってくる?東寺風景 [社寺]
本日の写真は、25日の東寺。
ライトアップのイベントは、中止になっていた。
もっともやっていても「夜にお寺は行ってはいけない」と小さい時から言われていたので行きません。最近、そういうことは言われて育たないのだろうか?
看板を見て行こうと思う人がいるのが不思議。
東寺に似合わないように私は感じますね。
蓮が生えている所は、智積院と違ってまだある。
ライトアップの演出用なのかな?
今年の蓮は比較的長く楽しめていますね。
蓮の葉っぱを見ていると「蓮の実おこわ」が食べたくなってきた。
昔は、飲茶の専門店がたくさんあったけど、最近はありませんね。
京都市内の食環境は、ものすごく悪化してきていますね。
全国チェーン店や廻る寿司、唐揚げ、ラーメン、焼肉・・・なんかしか手頃に食べられるお店がない。京都観光に来て、そんなモノを食べるのかな?
しかもアルコールが出せないらしい・・・。私は問題ないけど、ビールに餃子を昼間から楽しんでいたおじさんたちが悲しそう。
一瞬、青空が見えてきた。
なんか久しぶりな感じがしますね。
今年の夏は、不思議な夏だった。
↑これがイベント用の飾り付け。中からエイリアンのフェイスハガーが出て来たらちょっと面白いと思うけど・・・。
この当たりもイベント中止で元通りになっている。
やっぱり変なものがない方がいいと感じます。
↑京男の和菓子本が新装版になりました。初版を出版した2013年1月26日時の記事と新装版が出版した2018年1月19日の記事をご覧ください。
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護摩ベースは六角形? [社寺]
本日も智積院境内。
ここは、金堂前柴燈護摩道場です。
6月の青葉まつり(弘法大師空海さんと真言宗の中興の祖の興教大師さんのお誕生日記念のお祭)の時、柴燈大護摩供法要がある場所です。
この六角形の所に護摩が作られる。
この形、なんか意味があるのかも。
↑これが青葉まつりの時の柴燈大護摩供法要、六角の上に護摩が組まれる。
中に立っても特別な波動は感じませんでした。(笑)
いまのシーズンは、とても静か。
散策するには良い時期?かも。
この写真には、映ってないけど、不思議な人影が見えた。
でもそれはこの世の人ではなかった。
なんなのか?この頃、そういうのをよく見る。
この日は、京都駅の新幹線の所のカレー屋さんで食べたハンバーグカレー。
時間がなかったからこのようなモノを食べました。
最近、こういうのが多いかも。
↑京男の和菓子本が新装版になりました。初版を出版した2013年1月26日時の記事と新装版が出版した2018年1月19日の記事をご覧ください。
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タグ:京都 社寺